倉橋惣三 略歴

1882(明治15)年12月28日生まれ、1955(昭和30)年4月21日没。

お茶の水女子大学名誉教授。

従三位勲三等旭日中授章。

 

大正から昭和にかけて活躍した日本の児童心理学者。

ドイツの教育学者で幼児教育の祖であるフレーベルの思想に影響を受け、日本の堅苦しかった保育や幼児教育を改革していった「日本のフレーベル」とも言える存在として知られています。

日本の幼児教育の先駆けとなった、東京女子高等師範学校附属幼稚園(現・お茶の水女子大学附属幼稚園)で長く主事を勤めました。

 

倉橋はフレーベルの教育思想を重視しながら、自らも「誘導保育」と呼ばれる保育方針を打ち立てました。

「誘導保育」とは、子どもが持つ「自らの内に育つ力」を大切にし、子どもが自発的に自由に遊ぶ中で「自己充実」を目指すという教育方針です。周囲の大人が教え導くのは、その自己充実のために刺激を与え、環境を構築することと説きました。 

同時に全国を講演行脚し続け、日本の幼児教育の発展のために奔走しました。

 

その功績が認められ、昭和3年、5年、9年~12年の6年間にわたって、昭和天皇皇后両陛下に御進講を務め、その後、皇太子殿下(現 上皇陛下)が小学校に上がるまでの2年間、遊び相手として出仕を務めました。

戦後は、いち早く疎開先から東京に戻り、行き場を失った子ども達のために「御近所幼稚園」を始めます。また『教育刷新委員会』の委員となり、新しい日本の教育制度構築のために尽力しました。

1948(昭和23)年には日本保育学会を創設し、初代会長に就任。同学会は、今も活動が続いています。

また、現在でも発刊されているフレーベル館『キンダーブック』と『幼児の教育』は、生涯にわたって編集に携わり、執筆を続けました。

 

1955年4月21日に永眠、この日は奇しくもフレーベルの誕生日でもありました。

 

「一人の尊厳」

 

人間は一人として迎えられ、一人として遇せられるべき、当然の尊厳をもっている。人間の一人は絶対のものである。各個の人間が銘々に有する、神聖なる尊厳である。

一人を一人として迎えないことは、人間の尊厳をおかすことである。一人の一人たることを忘れるのは、人間に対する最根本的の無礼である。

 

『幼稚園雑草』より

 

 

 

「こころもち」

 

子どもは心もちに生きている。

その心もちを汲んでくれる人、その心もちに触れてくれる人だけが、

子どもにとって、有り難い人、うれしい人である。

・・・

その子の今の心もちにのみ、今のその子がある。

 

 

『育ての心』より

「我等の途」

 

教育は人情の発露である。人情だけでは教育は出来ない。研究がいる。設備がいる。方法がいる。

しかしこれらは皆人情の土台の上に築かれるものである。これらのものがいかに完備しても人情の欠けた所に教育はない。

 

我等の教育に常に潤沢なる人情味を湛えしめよ。

もっと大胆にあたりまえの人情を流露せしめよ。

 

そこに始めて自分も生き子供も生きる。

 

『幼稚園雑草』より    

 

西暦

年齢

倉橋惣三とその関連の出来事

1882

0

1228 静岡で武士の家系に生まれる。

1892

10

母と2人東京へ。浅草尋常小学校に転校する。

1895

13

4 東京府尋常中学校(5年制)入学。

1898

16

この年創刊された『児童研究』を定期購読。

1900

18

3 東京府第一(東京府尋常)中学校卒業。

9 第一高等学校入学。

この頃からお茶の水幼稚園に出向き、子どもたちと遊んでいた。

1903

21

6 第一高等学校卒業。

9 東京帝国大学(現東京大学)文科大学哲学科に入学。元良勇次郎教授と出会う。

児童心理を研究する目的で、引き続きお茶の水幼稚園に通う。

1906

24

6 東京帝国大学卒業。

9 帝国大学大学院児童心理学入学。

1909

27

「心理学通俗講話会」発足。

『婦人と子ども(のちの『幼児の教育』)』に巻頭詩が掲載される。

1910

28

東京女子高等師範学校講師嘱託(児童心理担当)になる。

フレーベル会(のちの日本幼稚園協会)に加入。

機関誌『婦人と子ども』に原稿が掲載される。

青山女学院高等普通科、青山女子手芸学校教師(心理学・教育学担当)になる。

1911

29

『婦人と子ども』の編集に和田實とあたる。

1912

30

『婦人と子ども』編集兼発行者となり、新編集方針発表。

「第19回京阪神三市連合保育会総会」にて「幼児保育の新目標」講演。

内田トクと結婚。仲人は元良勇次郎教授。(元良はこの年、永眠)

1913

31

長男・正雄誕生。

1915

33

「第22回京阪神連合保育会」にて「幼児教育の特色」講演。

1916

34

次男・文雄誕生。

青山女学院高等女学部、青山女子手芸部退職。

1917

35

東京女子高等師範学校教授、同附属幼稚園主事となる。

1919

37

長女・直子誕生。

『婦人と子ども』を『幼児教育』に改題。

文部省に教育学・心理学研究のため2年の欧米留学を命ぜられ、横浜港から外遊へ出発。

1920

38

アメリカ(シカゴ・ニューヨーク・ボストン・ニューヘイブン等)を回る。

1921

39

ヨーロッパ(イギリス・ベルギー・スイス・ドイツ・チェコスロバキア等)を回る。

ペスタロッチ、フレーベルゆかりの地を巡礼。

1922

40

『コドモノクニ』創刊。

ヨーロッパ(オーストリア・イタリア等)周遊後、帰国。

東京女子高等師範学校教授および同附属幼稚園主事に復帰。

『コドモノクニ』編集顧問になる。

1925

41

関東大震災で東京女子高等師範学校附属幼稚園の前園舎が焼失。

1924

42

東京女子高等師範学校附属高等女学校の主事となる。幼稚園主事と兼任。

附属幼稚園主事、『幼児の教育』主幹を退任。

1926

44

初めての著書『幼稚園雑草』を出版。

1927

45

東京女子高等師範学校附属高等女学校の主事を退任。

『キンダーブック』創刊。

1928

46

天皇、皇后両陛下に「児童の心理」をご進講。

『キンダーブック』編集顧問になる。

1930

48

皇后陛下に「幼稚園保育事項」ご進講。

東京女子高等師範学校附属幼稚園主事となる(3度目)。

1933

51

日本幼稚園協会主催の幼児教育夏期講習会にて、

初めて全国の幼稚園の先生方に「保育法」を講義し、「誘導保育」という思想を提示した。この講義がのちに出る著作『幼稚園真諦』の原本となった。

1934

52

天皇、皇后両陛下に「児童教育問題」をご進講(1937年まで毎年)。

『幼稚園保育法真諦』出版。

1936

54

『育ての心』出版。

1938

56

葉山御用邸、赤坂の東宮仮御所へ出仕。

皇太子明仁親王の遊び相手となる。

1945

63

東京都の「幼稚園閉鎖令」により東京女子高等師範学校附属幼稚園閉鎖。

長女・直子の住む姫路へ疎開。

8月15日の玉音放送を聞き、一週間以内に帰京。保育再開のため奔走した。

焼け跡の子どもたちのために臨時の「御近所幼稚園」を開いた。

1946

64

「アメリカ合衆国教育使節団」来訪。日本側委員として接待にあたる。

戦時中休刊していた『キンダーブック』『幼児の教育』を復刊。

1947

65

第1回全国保育大会開催。「全国保育連合会」結成。

幼児教育内容調査委員会委員長を務め、保育要領の作成に着手。

1948

66

「保育要領」刊行。今日の「幼稚園教育要領」の原型となる。

全国保育連合会第2回全国保育大会開催。現在も活動が続く「日本保育学会」発表会、および学会を創設。初代会長になる。

1949

67

体調を崩し、難聴で通院治療。お茶の水女子大学教授兼、お茶の水女子大学東京女子高等師範学校教授になる。

12月依願退官。教職生活39年であった。

『幼児の教育』の編集主幹は亡くなるまで継続した。

1950

68

老体に鞭打って全国を講演して回る。

1952

70

お茶の水女子大学名誉教授となる。

1954

72

『子供讃歌』出版。

秋から病状悪化。19551月号の『幼児の教育』巻頭言が絶筆となる。

1955

73

日本保育学会会長、『幼児の教育』編集主幹、『キンダーブック』の編集顧問をそれぞれ後進に譲る。

421日、フレーベルの誕生日に脳血栓(脳軟化)で永眠。享年72歳。

『倉橋惣三物語』巻末年表より抜粋


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