倉橋惣三のことば

倉橋惣三は、講演や著書だけでなく、雑誌や新聞などさまざまな媒体に精力的に執筆しました。

その残された数多くの言葉は、100年経った今も尚みずみずしく、私たちの心に響くものばかりです。

 

このページでは、そんな倉橋惣三の言葉の一部をご紹介します。

 


「母の誕生・母の成長」

 

赤ン坊の初めて生まれた家へ祝いに出かけて、
「この度はお目出度うございます。お二人の御誕生まことにこの上ないことです」
というと、どの産婦さんも皆、変な顔をする。
「いやこれは私の申しようが足りなかった。まず以て第一のおよろこびが、お子さんの初の御誕生であることは申すまでもありませぬ。しかし、その上にもう一つお祝い申し上げたいのは、あなたが新しく母になられたお喜びです。

あなたも、この度初めて母というものに誕生せられたわけではありませんか。私は、そのお祝いをも、併せていわずにはいられないのです」

 ……

世間では、母が子を生むと平気でいうが、これほど論理の順が間違っているいい方はない。
勿論その反対に、子が母を生むというのも、いい方として奇妙に聞こえるが、実のところはその方がかえって順にあっているかも知れない。
何といっても、子があってこその母だからである。
鶏がさきか卵がさきかといってよく議論するが、母と子の場合はそんな面倒な議論ではない。わが子を抱いて初めて母の体験がはじまる。その事実上の順序だけの話である。しかも、そこにこそ、母ということの深い意味があるというものではあるまいか。

『育ての心 』より

「母の誕生・母の成長」

 

「わが子のため」それは最も美しい言葉である。

「母自らのため」。それは極めて好ましくない響にも聞こえる言葉である。

 

しかし、実はわが子のためが自分のためになるのが母の生活である。

そして、自分のためがわが子のためと同じことに帰着するのが母の生活である。

自分もわが子のお陰で母になれた。これからも母としてますます成長すると気がついた時、初めて真に、母として生命づけられるというものである。

母と子は血の関係というが、それはただ血肉の結びつきという意味には止まらない。ましてや子が母から血肉を享けたという関係だけではない。

母も常に、子から血肉を享けているのである。わが子に与えるばかりでなくわが子からもたえず与えられているのが母である。

子も生まれ母も生まれ、子も育てられ母も育てられる。なんにも変わった事をいっているのではない。思えば嬉しさが込み上げてくるような真実である。


『育ての心 』より

「あまい母・からい母」

 

第一は、子どもの性質に対してである。

あまみで柔らげてやる必要の性質もあり、からみで引きしめてやる必要の性質もある。

気の強い子、意地張り殊に反抗性の、いつもどことなくとげとげしているという風のある子など、取り扱いにからみが勝ったら一層こわばってしまう。舌触りの滑らかな柔らかいあまさで、心の繊維をほごしもし、ゆるめもしてやる必要がある。

その反対に、気の弱い子、意気地なし、殊にぐずぐず性の、いつも何だかふらふらしているという類の子などには、一味のからみを混ぜて、締りのある、所謂塩のきいた性質にしてやる必要がある。

 

しかし、そこがまた加減もので、弱い性質の子にからみがきき過ぎると、いじけ性がいよいよ委縮したり、人怖じ性がひがみにこじれたり、飛んでもない結果にならんとも限らない。

といって、弱さにひかれて、あまくばかりあまやかしたら、どこまでも飴のようにだらだらになろうとも分からず、こういう子ほどあまさからさの匙加減のむずかしいものはない。


『育ての心 』より

「あまい母・からい母」

 

加減の標準の第二は、相手の性質でなしに、自分すなわち母その人の性質である。

 ……

ところが、料理人があまずきなら、相当あまくてもあまいと思わないし、からずきなら、相当からくてもからいと気がつかない。随分からいねといわれても、そんなでもありますまいと平気な顔をしている。それは傍から何といっても、当人がそうかしらと思わない以上は仕方がなかったりする。

子どもの取り扱い上のあまから加減も、謂わばまあそれと同じことで、或るお母さんには出来ないあまさが、他のお母さんにはそれでもまだ物足りないくらいであったり、或るお母さんにはたえられないからみが、他のお母さんには何の感じもなかったりする。

現に、一方があまいつもりのが一方にはからいと思われ、一方のからいつもりが一方にはあまく思われるというようなことは、一家の中で、あま父さん、から母さんの間に度々舌の感じの衝突をきたしていることである。

……

一家の中の者でさえそうなら、台所を異にしその料理風を異にする家々で、母其の人に生来のあま口とから口との差別のあるのは免れ難いことである。

……

教育は相手をよく考えて知らなければならないと共に自分自身をもよく知ってしないと、思いもよらぬ加減違いを生じる。教育の方針としてのあまさからさは理論で簡単に調合出来るが、自分が元来、あま母か、から母かということ、それを標準にしての実際の加減のし方は、お母さん自身で省みていただくより外はない。


『育ての心 』より

「ほいほい子」

 

ほいほい子とは、ほいほいほい可愛がられて育つ子どものことをいったのである。

大切に可愛がられて育つくらい幸せなことはない。しかし、その幸せはどこまでほんとうの幸せか。目の前の幸せばかりが一生の幸せではない。

 

やや成長してから、ほいほい子の受ける害は独立心の出来ないことである。

一から十まで人の世話になって、お乳母日傘で大きくなる子に、独立というような強い力が出るはずはない。すべて精神の発達は「やってみること」「自分で失敗してみること」から出来てゆく。やってみないで何の自信が出よう。

その一番手近な例は子どものあんよで分かる。「這えば立て、立てば歩め」の親心で、傍からいくら促しもし、導きはしても、歩行は子ども自らが覚えるのである。

他の発達もすべてこの通り。人手を借りなければ何一つ出来ぬ依頼心あかりで、奮発のない意気地なしは、ほいほい子から出来るのである。

 

そしてこういう独立心のないものは、一生ほいほいされていればともかく、山坂険しい世の中へ出ては、心棒のない車、舵のない船、坂から転がり落ちるか、波の間に漂うの他はない。

「甘やかし子を棄てる」とはここの真理をいったものである。我が子に財産を残してやることもいいかもしれない。我が子に学問をさせておいてやることは尚更いい。しかし、我が子に独立心を養っておいてやるほど大切なことはない。ただ目の前に安楽を与えて、この独立心を与えない程、我が子の為に実に不親切なことはない。

 

『育ての心』より

 

「ほいほい子」

 

人は自分のために、よってたかって世話してくれるもの。自分は人に命令し、使役していればいいもの。これが当たり前だというふうの考えは、ほいほい子には当然起こる。

わがまま育ちに同情心が薄いとは、昔からいうことだが、この同情心のない人間というものは、傍目にも憎たらしいものであるし、世の中に出てもろくなことはない。

 

その子可愛さで盲目になっている親にはとにかく、そうでないものには爪はじきされて、社交の上に人望の徳望の、ということはとても受けられない。

本人も次第にそれに気がつかぬではないが、しかし、気がついたとて幼時からの習慣はちょっと抜けがたい。また、心の底から他人を尊敬し、人を人らしく思うということのない者が、いくら御形式につめたとて、人望のつくわけのものではない。それもはじめから低く小さく慣れたものならばいいが、ほいほい育ちに限って、人からは崇め尊んでもらいたい。人を人とも思わないで、自分を自分とのみ思っている。

往々にして世間に見る独りよがりのいやな人間というものは、たいていこのほいほい子から出来るのである

 

『育ての心』より